Fetish Pono

【連載】第5回:フェチの世界は市民権を得たか?

毎月10日公開の連載記事として私(ジュテーム家康)がWAMにまつわる内容を執筆していきます。

皆さんは「フェチ」という言葉を聞いたときに、どのようなイメージを持たれるでしょうか?

このページをお読みになろうという方々の多くは、おそらく「フェチ」に対して理解があり、なんらかのフェチの趣向をお持ちであり、故に「フェチ」という言葉に対して偏見や嫌悪感は無いものと推察します。

しかし、世の中一般では「フェチ」という言葉に対して正確な概念を理解されておらず、忌避の対象としている人が多いのも事実です。私の例で言えば、日頃付き合いのある私の友人や知人、仕事仲間といった人間関係の中でさえ、私がおこなっている「フェチ」作品制作に対する理解度が低く、「フェチ」という言葉を聞いただけで「変態」「異常性愛」などと同じ括りと見なされる事もあります。(私が自分の活動を周りにカミングアウトしまくっているからかもしれませんが。笑)

「ある事象」に対する印象や感想、評価というものは十人十色です。各々の生まれ育った環境や文化、習慣などによる主観的な判断を基盤としているからです。よって、ある物事に対して、Aさんは良いと思っても、Bさんは良くないと思う現象は自然なことであり、そうあるべきたと考えます。ただ、「ある事象」に対する判断が、その人の理解不足、偏見、誤解などに基づいていて、こちらを攻撃してきたり、軽蔑してきたとしたら話は別です。

「フェティシュ」とはなんぞや、ということを理解した上で、「私は●はあまり好きでない」とか「私は■が好きだ」とか「私は●よりも■の方が好きだ」とか、「●?■?なんなんだこの世界は?私は理解できない世界だから自分には関係ない。」というのであれば健全な判断です。しかし、自分には理解できない世界があるという事でとどめておき、放っておくだけならともかく、攻撃したり蔑視したりする方もまれに存在しますのが理解に苦しみます。自分が生活していくにあたって何ら害を受けないのに、自分にとって路傍の石に過ぎないのに、なぜ放っておこうとしないのか・・・と思うわけです。

「自分には理解できないし好きになれないけど、そういう世界もあるんだ。」と様々な価値観の存在を認め、同時に自分の価値観もアピールし理解してもらえる人たちには受け入れてもらう(あるいは理解してもらえない人たちには受け入れてもらえないが、それはそれとしてこちらも相手を尊重する)というのが健全な人間関係のあり方のはずです。

「フェチ」という言葉そのものに関しては、昔(20年以上前)に比べると浸透してきており、「○○が大好き!」といったような、ライトな感覚で使用されるようになり市民権を得ていると思われますが、「フェチの世界」がライトな感覚として多くの人に理解される存在になっているかというと、そうではないと思います。なぜならば、「ウェット」や「メッシー」といったWAM分野を例にしても、これらを、家族や友人知人、仕事仲間などに対して自分の好きな音楽、スポーツ、映画、芸能人、食べ物などと同じように何の躊躇もなくオープンに語れる人はあまりいないと推察できるからです。(私の場合は、家族や親友はもちろんですが、友人や知人、仕事仲間などに語ることが多いです。語ったことがきっかけで私の作品制作に様々な形で協力してくれる賛同者が増えつつあるのが現状です。)

【WAMとは・・・】
この記事をお読みのほとんどの方が記事タイトルに記した「WAM」という単語の意味をご存じかもしれませんが、はじめて当サイトを訪れる方々も増えてきているので、簡単に説明をさせてください。—-WAMとはWET(濡れること)+AND(アンド)+MESSY(汚れる)のそれぞれの頭文字「W」「A」「M」をとって略した一つの「フェチ用語」として数十年前から使用されている単語です。

おそらくは、多くの「フェチ」というものは、そこに表現されている映像なり画像なり文章といったものに対して、鑑賞者は性的な興奮を得ることが多々あるため、自分の好きな「フェチ」の世界が普遍的にアダルト的な要素を含む世界であろうと少なからず考えてしまい、第三者にオープンに語りにくくなるのかもしれません。しかし、語る側は性的興奮を感じても、友人知人などのように語ろうとしている相手側は、語る側と同じように性的興奮を感じない場合が極めて多いはずです。語ったところで何の変哲のない事象と捉えられるだけです。

そうであれば、自分の好きな「フェチ」を語ったところで何の不利益や摩擦は生じることはないはずですし、逆に、少しでも自分の「フェチ」に対して理解や興味を示してくれれば、うれしいことであり、そこから何かが発展する可能性すらあります。しかし、語らなければ何も起こりえません。「無」からはワクワクするような「有」はけっして生まれないのです。

「声フェチ」とか「浴衣フェチ」とか「黒髪フェチ」といったレベルであれば、家族や友人、仕事仲間などにもカミングアウトしやすいかもしれませんが、例えば、メッシー(泥だらけとか、クリームまみれとか、白濁ローションまみれ・・・などなど)となるとカミングアウトするハードルが上がることは間違いないですし、話したところで友人知人には理解してもらえないだろう・・・と考えてしいます。自分の好きな音楽、スポーツ、映画、芸能人、食べ物などについてカミングアウトするのとはちょっと感覚的に異なると思うからに他なりません。

自分の好きなフェチの世界をカミングアウトして、相手が「自分も好き」と反応してくれることは非常にまれかもしれませんが、そもそも友人知人との会話において、賛同を得るのが目的ではないはずです。

たとえば、「私はコーヒーが好きで、さっき焙煎したての炭火焼きの豆を買ってきたんだよ。おまえは炭焼きコーヒーって好き?」という発言において、発言主は相手に対して、「俺も炭火焼きコーヒーが好きだぜ!」というように相手が反応してくれる事を必ずしも期待はしてないはずです。相手はコーヒーが嫌いで紅茶が好きかもしれませんし、または日本茶が好きかもしれません。自分の好きなものを会話のネタの一つとして相手に提示しただけで、自分の好みに対する賛同までは求めていないはずです。

今の例と同じで、自分の好きなフェチの世界を友人知人に話すことは、話のネタの提供に過ぎず、相手からの賛同を得る必要などありません。とはいえ、相手が賛同してくれて、「俺もそういった世界になんとなく興味あったんだけど、ウェットというジャンルとして確立しているんだ?初めて知ったよ!」という反応があれば大変うれしいでしょうが、たとえ理解されなくても、「そうなんだ、おまえはそういうのが好きなんだね。でも俺は、●●とかいうのが好きでね・・・」と会話が続くのであれば、お互いが好きなフェチの世界を尊重し合って語り合う事ができるはずです。

その意味で、自分の好きな「フェチ」の世界を気軽に友人知人に話せないという心の壁があり、また、自分が理解できないフェチの世界を知ったときの反応として「理解」や「敬遠」ではなく「否定」「拒絶」「偏見」「軽蔑」といった態度をとる人が依然として多いという状況があるとすれば、本質的な意味でフェチの世界が市民権を得たとは言い切れません。

「敬遠」の本来の意味は、相手に敬意を表して遠ざけることです。否定や軽蔑とは全く意味が異なります。たとえば、野球の世界で言えば、「大谷を敬遠する」とはどういうことかを考えれば分かりやすいです。大谷を否定、ましてや軽蔑しているわけではなく、彼の存在を理解し敬って、自分は相手にできないからどうぞ1塁に行ってください、と「遠ざけている」に過ぎません。つまりは、大谷の存在に敬意を表しているわけです。

XなどのSNSに代表されるようにインターネット社会の台頭により、様々な「フェティッシュな世界」を多くの人が表現できるようになり、また色々なフェティッシュ分野の派生形を見ることができるようにもなりました。こうした現象は、いままで知り得なかった(あるいは気がつかなかった)フェティッシュな世界を知る機会が多くなってきたという意味では望ましい状況です。

こうした環境下において「フェティッシュな世界」が市民権を得るには、様々なフェチの世界が存在するということを受け入れる寛容性を持つと同時に、各々が自分の好きなフェチな世界について堂々と他人に語れるようになるという意識がもっと浸透しなくてはならないと考えます。「自分の好きなフェチ」を「自分の好きな音楽、スポーツ、映画、芸能人、食べ物など」と同列で語れる人が増えてくれば、自然とフェチの世界は市民権を得ることができるはずです。「No Fetish! No Life!」

■フェティシュポノ理念(Mission statement)
https://fetish.gdp22.com/philosophy/


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