Fetish Pono(wet,messy,rip)

【連載】第17回:SNS時代のフェチ表現

毎月10日公開の連載記事として私(ジュテーム家康)が執筆していきます。

 
かつて「フェチ」とは、誰にも言えない個人的な嗜好で、一般的には「変態」として片付けられがちだった分野です。「フェチ」という言葉自体もほとんど市民権を得ていなかったので、今のように「●●が好き」といったニュアンスで「●●フェチ」といった使い方はされていませんでした。しかし、2008年前後のSNSの台頭とその普及によって、その前提は大きく変化しました。

今では、たとえば「濡れたスーツ」「制服のまま泥だらけ」といったようなフェチの画像や動画はSNSなどで簡単に見付けることが出来ます。そして、それを気軽にネット上でシェアして共感を得られる時代となりました。私がフェチ作品制作をはじめた25年程前は考えられない状況です。
無料でも色々視聴できる時代なので、当然のことながら、有料で動画を販売する者(私もですが)にとって、そういった無料で観ることができる動画コンテンツ以上のもの(そういったものには無い要素を盛り込んだもの)を作っていかなくてはなりません。

フェチ表現のSNSにおける位置づけは、単に「見せる」手段を得たというだけではなく、創作活動そのものの流れにも大きな影響を与えることになったと考えています。

まず、特筆すべきは、フェチジャンルの細分化と深化です。かつては一括りにされていた「濡れフェチ」でも、「リクルートスーツ」「セーラー服」「私服」「スク水」といった衣装の要素、「プール」「海」「お風呂」といったロケーションの要素、「着衣水泳」「着衣入浴」「濡れ髪」「水中」「濡れ透け」といったシチュエーションの要素などが複雑に絡み合い、衣装であれシチュエーションであれ、人それぞれこだわりが異なるので、さらに細分化されることとなります。
よって、今の時代のフェチ作品制作者(フェチに限らず、食べ物でも衣料品でも、どのような分野にも言えることですが)は、細分化された要素を意識して自分が何を表現するのか(したいのか)、何を提供するのかをより明確にし、分かりやすく打ち出して、「違いをもたらす違い」を取り入れた作品を世に発表していかなくてはいけない時代になっています。視聴者も単に「濡れた」「汚れた」という現象だけでは満足できず、ストーリー性、設定など、よりこだわりある世界観を求めるようになってきました。

一方で、こうした「細分化されたフェチの可視化の氾濫」にはリスクも伴うようになりました。X(旧Twitter)やインスタ、YouTube、TikTokなど、多くの主要SNSでは「センシティブなコンテンツ」への対応が厳格になってきています。これは、フェチ作品の委託販売先プラットフォーム(私の場合で言えばXCREAMやFANTIAなど)も同様です。
 

フェチ系コンテンツ、とりわけ「フェチとしての非日常」を扱った作品は、SNSでは性的であると見なされやすく、シャドウバンや凍結の対象となる可能性を常に秘めています。私の場合もXで軽いシャドウバン状態であることが多く、「おすすめ」や「トレンド」はもちろん、検索にも引っかからず、インプレッションに影響が出るといった具合です。また、いくつかのSNSアカウントは凍結され使用不可になってしまいました。

たとえば、
「雨で濡れた制服姿の女性が歩く」といった動画でも、意図しない性的判定がされるケースがあります。特に「女性」「濡れ」「制服」といった要素が重なると、AIによる判定が過剰に働く傾向にあるからです。「雨で濡れた制服姿の女性が歩く」という動画は一般的には誰が観ても、その事象そのものはけっしてアダルトではありません。しかし、そういった要素の中の一部が原因で性的判定がされることが多々あるわけです。これは、先に話した「細分化されたフェチの可視化の氾濫」の負の側面だと言えます。

このような中で、多くのフェチ作品制作者は、作品そのものだけでなく、作品タイトルや説明文などの「表現のさじ加減」にも苦労することがあります。たとえば、テキスト情報に「セーラー服、学校、女子高生」といったものがあるだけでもペナルティーを受けます。タイトルや説明文を工夫したり、直接的な描写を避けることで自衛することは可能ですが、表現の自由が奪われ窮屈な思いがするのは否めません。かといって自由に表現しすぎると思わぬ判定を受けてしまいます。SNSやプラットフォームと共存するためのノウハウが求められる時代でもあるわけです。
究極的にはAIさんに、脱ぎアリのアダルト作品と完全着衣のフェチ作品の違いを早く理解していただかなくてはなりません。ネット上に溢れたスーツやセーラー服などのコンテンツの多くが脱ぎアリのアダルト作品だということと結びつけて、スーツやセーラー服などのコンテンツと認知するなり即センシティブ判定をするといったことを無くしていってもらいたいものです。(笑)

ここで問われるのは、「フェチ的表現がタブーになる基準は何なのか?」という問題です。たとえば、プールで泳いでずぶ濡れになったセーラー服姿の成人女性の映像が「性表現」と見なされて削除される一方で、映画やドラマ、CMなどでは同じような演出が許容されているケースがあるわけです。この違いはどこにあるのでしょうか?

以前もこのような趣旨の考察を連載記事で書いたことがありますが、映画やドラマ、CMなどの場合は、「公共性がある作品」で「性的意図がないとされているから」だと思います。しかし、見る側の主観や時代の空気によって、「これはOK」「これはダメ」といった判断基準が変わりうるという危うさもあります。

つまり、タブーの境界線は固定されたものではなく、文脈と社会的背景に依存するということです。そしてその曖昧さが、作り手にとっての葛藤を常に生み出すことにもなります。

私自身、約25年にわたってフェチ作品の制作を続けていますが、この数年で投稿の仕方やPR方法は大きく変化したのも事実です。また、委託販売先のプラットフォームが各々の都合や事情で、いつ、どのような対応をしてくるのかも分かりません。脱がないフェチ作品メーカーが原因ではなく、各プラットフォームが扱うアダルト作品が要因で、一部のブランドのクレジットカード決済が出来ないなどの弊害もあります。これは健全なメーカーと購入者(一般ユーザー)にとっては都合の悪い状況です。こうした事情により、3年ほど前に「FETISH PONO」を立ち上げ自社サイトとして販売システムも導入したわけです。他のプラットフォームでは販売できない作品を自社サイトで販売するという時代もいずれ訪れるのではないかと先読みしての対応です。

過去に許容されていた表現が突如として規制対象となったり、動画の切り抜き方一つでセンシティブ判定を受けたりすることが今後はますます増えていくと予測します。しかし、逆にいえば、「見せ方の工夫」がクリエイティビティを刺激する時代であるとも考え、私はこの状況を楽しむことにしています。

「制限されること=諦めること(たとえば制作をやめる、自分らしさを失った作品を作る)」ではなく、「制限されること=新たな表現への挑戦」と捉える前向きなマインドこそが、今の時代、制作者には求められているのではないかと感じています。「健全なフェチ」が動画コンテンツの片隅に追いやられるのではなく、もっと当たり前のものとして受け入れられるように(※下記「フェティシュポノ理念」参照)、それぞれのフェチに光が当たる世界を目指し、私は作品制作を通じて活動を続けていきたいと考えています

「No Fetish! No Life!」
文責:ジュテーム家康

■フェティシュポノ理念(Mission statement)
https://fetish.gdp22.com/philosophy/

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