Fetish Pono

【連載】第8回:「フェチ」であるかの解釈

毎月10日公開の連載記事として私(ジュテーム家康)がWAMにまつわる内容を執筆していきます。

世の中には実に様々な「フェティッシュ」(以下フェチと略します)が存在します。とりわけ「フェチ」に関しては性的なものと結びつきやすいため、時には偏見の目で見られることがあります。

私や私と同じような趣向を持つメーカーさんが表現しているWAMといった映像作品に関しては、女性モデルがヌードになったり、観た人が普遍的に性的興奮を得るものではありません。視覚的な表現内容を基準にして判断すれば、誰が観ても一般的な「アダルト作品」とは異なる内容であるとは一目瞭然ですが、WAMに興味がある人にとっては性的興奮を得ることがあるので、視覚的要因では無く、精神的要因を根拠にして「準アダルト作品」として区分けされる場合があります。
※もちろん区分けするのは、WAM制作者でもWAM鑑賞者でもWAMに興味を持たない人々でもなく、WAM作品を販売するお店であったり、ネット上のプラットフォーム側です。

【WAMとは・・・】
この記事をお読みのほとんどの方が記事タイトルに記した「WAM」という単語の意味をご存じかもしれませんが、はじめて当サイトを訪れる方々も増えてきているので、簡単に説明をさせてください。—-WAMとはWET(濡れること)+AND(アンド)+MESSY(汚れる)のそれぞれの頭文字「W」「A」「M」をとって略した一つの「フェチ用語」として数十年前から使用されている単語です。

「完全着衣の作品」に関しては、ヌードシーンを含むフェチ作品と一緒にされたくないと思うのですが、フェチ作品を扱う委託販売事業は大手であれ中小プラットフォームであれ、「そのフェチで多少なりとも興奮する人はいるんでしょ?」という点を根拠にしてメーカー側に「準アダルト」での出品を奨励する傾向にあります。その方が、プラットフォーム側としてはアダルト作品の隣接作品としてのアピールが出来るため、収益化しやすいという意図も十分にあろうかと思います。

ちょっと脱線しますが、純粋なWAM作品ではないものの、坂系アイドルのミュージックPVなどにも、よくWAM的なシーンが含まれる作品(DVDや配信動画)が存在しますが、そういったものはフェチではないのか? 志村けんさんが生前、自分の番組内でアイドルや女優さん達とやっていたコントの中でのWAM的なシーンはどうなのか? 映画やドラマなどで時々見られるWAM的なシーンは? といったような疑問を持ち、フェチ的映像と、そうでない映像との境界は何なのか?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

上記のような映像は、そこだけ切り取れば、少なくても我々「WAM」好きにとっては「WAMシーン」であり、フェチ的映像と捉えます。しかし、「WAM」に興味が無い人にとっては、「雨に降られてずぶ濡れになってる」とか「パイを顔に投げを付けられてクリームまみれになってる」とか「池や海に落ちて泳いでる」といったようにハプニング的動画、または、おもしろ動画のような映像として捉え、まったく興奮することもないはずで、「フェチ」という視点で映像を認識しないはずなのです。

また、そのプロデューサー側も決して「WAM」を意識しているわけではなく、作品や番組の文脈上(ストーリー上)、必要とされたり、斬新さ、面白さをあたえるスパイスとして用いているに過ぎません。仮に、WAMを意識していたとしても、その「WAM的」シーンが主ではなく、作品や番組の(ストーリー)全体の一つの要素だとみなされるので「フェチ」とは区分されないわけです。

このことは、映画作品でヌードシーンやベッドシーンが多く含まれていたとしてもアダルト的な作品とは区分されないことがあるのと同じ論法で説明ができます。ストーリー展開上必要なシーンであり、なおかつ、構図や照明、技法などが慎重に考慮されて撮影され、鑑賞者に深い感動や知的な刺激をあたえるレベルにまで至れば、それは芸術的映画という評価へと昇華され、アダルト的な作品とはされないわけです。

WAMに特化して考えた場合、たとえ完全着衣の作品であっても、それが「フェチ作品」として区分されるのか否かについての線引きは一般的には難しいところがあります。Youtuberが女性を起用し、その女性にスーツや制服を着てもらってそのままプールに突き落としてずぶ濡れシーンや水中シーンや濡れ髪や透けブラシーンを撮影して配信しても、それは私たちフェチメーカーが制作するような作品とは区別され「フェチ動画」とはならないはずです。でも、私がそのYouTuberと同じ事をして配信したとしたら、それは紛れもない「フェチ動画」です。

ここがポイントです。委託販売時業者プラットフォーム各社においては、動画作品制作者の目的と意図からその動画が「フェチ動画」であるかを判断しているということです。映画やドラマの中にWAM好きが興奮するような「フェチシーン」があったとしても、それは「全体」ではなく「一部分」に過ぎません。WAM好きを満足させる目的や意図を持って制作されているわけでもないので、それは
WAM好きにとっては「フェチ」として認識できるシーンをたまたま含んでいる普遍的なエンターテイメント作品としての映画やドラマとして扱われるわけです。

の意味で、WAM好きに満足していただきたいという意図をもって制作している私の作品はいうまでもなく「フェチ」作品です。ただ、表現されている内容そのものは、視覚的には、先に挙げた、映画やドラマ、コントなどのワンシーンと大差はなく、WAM的な映像制作に対しての「意図」「想い」などが異なるだけです。また、一般的なアダルト作品とは明らかに表現しているものは視覚的にも異なりますので「準アダルト」とか「成人動画」の傘下としての「フェチ」ではなく、「フェチ」という冠(最も大きな大ジャンルの一つ)という区分にしてほしいなと思います。そのためには「フェチ」が今以上に市民権を持ち、フェチ好きが、自分の好きなフェチについて、自分の趣味とか好きなスポーツを人に発表するのと同じレベルで、もっとオープに語られるような社会的文化的環境が整うことが条件になるとは思います。

「フェチ」を取り巻く環境、「フェチ」への理解というものは私が制作を始めた20年以上前(今世紀初頭2001年頃)に比べるとかなり良い状況へと変わりつつありますが、まだまだ「フェチ」に対する誤解を持つ人々が多いのも事実です。(年齢が上がるにつれてその傾向が強くなる)しかし、「フェチ」への理解が社会的に広まった背景としては、ネット社会の申し子である10~30代の若い世代の方々の功績が非常に大きいと考えます。まさに、ネットインフラが徐々に整備されてきたことと、若い世代のフェチ好きの方々が幼少期から年月を経て大人へと成長されたということが符合するわけです。

SNSを高いレベルで駆使できる人の割合が多い年齢層は、いうまでもなく10~30代の若い世代の方々です。ネット上で自身と同じフェチ趣向をもった人たちがいると知って安堵し、喜び、感動し、そして自身のフェチ趣向をSNSで発信したり共感し、時には拡散したりすることで老若男女問わず、様々なテイストの「フェチ」が色々な切り口で社会に広まっていったわけです。その流れの中で「フェチ」の今があり、未来があります。

自分のフェチ趣向を他者に理解してもらったり、他者のフェチ趣向を理解したフリをする必要はまったくないと思いますが、各々の人が自分のフェチ趣向をオープンに語っても変な人と思われないような社会的環境が構築されることは重要であり、願ってやみません。なぜならば、このことは、人間の日々の営みとリンクするからです。家族や友人に不満があれば、それをため込まずに言えるかどうか、職場で同僚や上司にしっかり物を言える環境であるかどうか・・・言えないとしたら何か問題があるわけで閉塞感が漂いストレスになります。そんなストレスを癒やしてくれるのものの一つが「フェチ活」であるわけですが、そこで二重のストレスは抱えたくないものです。

どのような形になるかは分かりませんが、私は単に自分の作品をつくったり、フェチ仲間をサポートする活動にとどまらず、「フェティッシュポノ理念」で掲げたことを
命ある限り遂行し続けたいと考えています。


「No Fetish! No Life!」
文責:ジュテーム家康

■フェティシュポノ理念(Mission statement)
https://fetish.gdp22.com/philosophy/

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